私は、フィリピン・セブ島に17年以上滞在し、その間、ずっとフィリピン人たちと仕事をしています。また、単身でこちらへ渡って来ましたので、こちらで結婚し、結婚生活は今年で丸15年となり、家内(フィリピン人)との間に長女と長男の二子をもうけました。
そんな中で、私にとっては、外国人と仕事をする事、コミュニケーションを取る事は日常であり、当たり前の事となっていますが、私の労働環境が日系企業であり、私に期待される機能は、大きくは、日本側と現地フタッフ(フィリピン人)との調整となりますので、常に日本とフィリピンの感覚の違い、ギャップを感じながら仕事をしている毎日です。
フィリピンと言う国の文化の源流
そもそも文化・躾・教育とは?
さて、タイトルに用いた、文化とか、躾とか、教育と言う用語について、世間では非常に良く聞かれるが、実は、かなり抽象的な言葉で、その本当の意味を体感する事は中々、難しいのかな…と私は思っています。私は、フィリピン以外の海外生活を含めると、彼是20年近くの海外生活になりますが、実を言うと、日本に居て、日本の事以外を知らなかった時には、先に挙げた用語の中で、特に、「文化」と言う用語について、知っている積りで実は何も知らなかったという事を、今になって思い知らされています。
即ち文化とは、その国や地域に広がる特徴的な人々の考え方、アリカタであり、善も悪も超越している、言い方を変えれば、例え同じ事象であっても、他所の国の文化では善と捉えられ、その他特定の国では悪と捉えられる可能性もあるのだと言う事を私は異なる文化における生活においての体験を通して初めて実感し、文化というものの本質を思い知った次第です。また、この文化と言うもの、その国、地域の宗教、気候や歴史などが色濃く影響しており、分かり易い例を挙げるなら、イスラム教国家では、一夫多妻制が認められるがキリスト教圏では、それは否定される…としたものです。
カトリックが大きな力を持つフィリピン
この国フィリピンと言う国は、アジアの中ではかなり特殊な部類に入り、その総人口のキリスト教徒の割合が90%を超えます。また、人口の80%前後がキリスト教の中でもカトリック教に属し、一応、政教分離を謳われる憲法を持ちながらも、その実、カトリック教の権威は、この国では絶大で、カトリック教の意向が政治や教育にも影響を与えているのが現実です。
そして、もう一点言える事には、この国は日本の戦国時代と同時期まで、群雄割拠の状態にあり、スペインによる侵略、植民地化によって初めて、この地域が国家として統一された状況の中、元々、この地域の民族が持っていた文化とか宗教とかが著しく破壊され、恐らくは、一部に残るイスラム教徒が植民地化される前のこの地域の文化を微かに継承したのではないかと思われます。こうした経緯もあって、フィリピンに残る今では少数派となったイスラム教徒たちは、自分たちこそ、この地域の正統な民族であると主張して譲らず、特に南部ミンダナオ島では、未だに紛争の種が尽きません。(しかしながら、私は、イスラム教徒とは交流は無いので、ここでフィリピンの文化という場合には、大多数のキリスト教徒の文化を指して行きますので、予め、ご了承下さい)
フィリピンは非常にユニークな文化を持つ
さて、そんな具合で、ここフィリピンはアジアの一部であり、その家族構成は下層へ行けば行くほど、アジアの伝統たる大家族制を色濃く残しますが、それがキリスト教と言う西欧文化の一部と非常に独特な形で融合して、非常にユニークな文化を形成しています。
また、インドのカーストのような制度として残る身分制はありませんが、実を言えば、上層部は、スペイン、アメリカ両国の統治時代から白人の血が色濃く、更に第二次大戦後、中国共産党支配を嫌って、ここフィリピンへ逃げて来た中華系が支配者層に加わり、形式上は独立国となりながらも、実は、まだ植民地の体を成しています。(余談になりますが、現在のフィリピン大統領のドテルテ氏に見られる中国寄りの発言も、こうした実態を知れば、かなり合点が行くのです)
こうした文化を背景とした家庭での躾、そして教育は?
植民地根性とは?
決して良い言葉ではありませんが、植民地根性と言う言葉があります。英語では、colonial mentality と言いますが、私には、この言葉の意味が、ここへ来て、初めて実感されました。
正直なお話をしますと、現在、私は日本を去ってから彼是20年近くの月日が流れる中で、母国日本のアリカタを第三者に近い目線で見ていて、昨今の状況はある種、このcolonial mentality を具現化しつつあるのではないか…そんな危惧をもっています。
話が少し逸れましたが、colonial mentalityの本質は「無責任」或いは「依存」という言葉に全て集約されるかと思います。
具体例を挙げますならば、ここフィリピンではシングルマザーが異常に多いという社会現象があります。何故かと言えば、男の子、女の子が性的に成熟した時に、基本的に、ここでは恋愛は自由なので、自然発生的に男女のカップルが成立しますが、カトリック教の強い影響の下(基本的な教えは「産めよ、増やせよ」で)、避妊具の使用は教会では否定される中、当然の結果として、かなりの高確率で、妊娠が発生する訳ですが、中絶ですら、教会の影響で、違法行為となってしまう(つまり、法律で認められていない)ので、妊娠してしまった女子は選択肢として、原則、産むしかないのです。
フィリピン男性と日本男性の違い
そして、ここからが、日本とフィリピンのの大きな差になりますが、多くの場合、ここフィリピンの男子は、「逃げ」を選択します。日本だったら、こうした行為は無責任と非難され、男子側には然るべき社会的な制裁のようなものもあるかも知れませんが、ここでは、そもそも、「責任」という言葉の定義すら怪しい中で、男子側の「逃げ」が許容され、ややもすれば、捨てられた女子側は、「魅力が無いから捨てられた」と揶揄されるケースすらあります。これは文化の違いと言えば、それまでです。しかしながら、この一点だけを捉えて言うのではありませんが、このいい加減さ、責任感の欠如が、この社会に蔓延している結果として、中々、この国が本格的に成長できないのは自明の理なのかも知れません。
やはり、言えますのは、こうした問題の大本には、家庭での躾があります。躾は教育の一部ではありますが、教育は、被教育者(生徒)に考えさせる事を要諦としますが、反面、(特に乳幼児への)躾とは、そうした一般の教育の前段階で、例えるなら、真っ白なキャンバスに色を付ける作業、或いは植木の剪定にも似ています。即ち、理屈抜きに、やって良い事、悪い事を強制力を持ってでも身に着けさせる事が躾だと私は思います。そもそも、言語能力が未発達な乳幼児に言って聞かせると言うのに無理がありますからね。
そうした切り口で見た時に、ここフィリピンでは特に、男の子に対する躾が大変に弱い印象です。これは、色んな機会を通し、この国で男の子、或いは、そこから少し成長した青少年たちのアリカタを見、或いは中流層以下の家庭環境を見る事が多かったという実体験を通して言える事です。
私の家庭での実体験
うちの長女(現在12歳)と長男(現在3歳)は
女の子の方は、性格的にも大人しく、ここまで大きな問題はない状態で育って来ました。ところが、男の子はやはり、性質的に荒くて、乱暴で、腕白で、次に何をしでかすか分からない怖さがあります。特に危険を避けるために、こちらも時に大声を上げて彼の動きを制する頻度も、長女とは比べようもないくらい高いです。そんな中で、私が家内(フィリピン人)に、下の子の性別(男の子である事)が分かった時に宣言した事があります。それは、
「この子に対しては、日本流の躾をオレがちゃんとやるから」
…と言う内容のものでした。
私は、既に年齢が50歳を超えていて、現在の日本の躾のイメージとは異なるものを背負って来た世代ですが、最近、こんな事がありました。私が休日に布団で寝ていたところ、早くに起きだして来た息子が、寝ていた私の頭に蹴りを入れて来たのです。恐らくは悪気は無かったものと思いますし、大して痛くも無かったのですが、私は、
「こら!何をするか!!」
…と息子の蹴った足を素手で叩き、(勿論、こちらも叩く強度はちゃんと調節していましたが)驚いた息子は大声を上げて泣きました。
それに気が付いた家内は、血相を変えて私を非難し、
「こんな小さい子に何をするの!」
…とヒステリックになりました。それで私は、
「小さいからこそ、ダメな事はダメと、身をもって覚えてもらうのが躾ってモンだ!!」
…と一喝し、家内を制しました。
このやり取り、現在の日本でもひょっとすると、賛否分かれるかも知れませんが、実は、こんな父親の行動は、私たちの年代にとっては当たり前の事でした。そして、今、この程度の事が非難される状態があるとすれば、ちょっと異常ではないかと私は思って見たりもします。
ウチの家内の反応は、ある種、フィリピンのスタンダードです。しかし、私が問題提起するのは、その結果として、フィリピン人男性のアリカタ、その社会環境は一体、どうなのか、或いは、日本の現状はどうなのか…と言う事です。(勿論、この一例だけを上げて、結論めいた事を言うのは少々、乱暴かも知れませんが、一々、各種事例を上げて説明するなら一冊の本にもなってしまいかねないので、悪しからず…です)
教育現場の実態
フィリピンでの教育関連のNGO活動
ここへ来た当時、スラム地域にある公立の学校への支援を行って来た中で、非常に深い印象を受けた事があります。それは、スラム地域の小学校の事で、ここには、そのスラム地域の子供たちが100%集まる背景をして、余り良い修学環境とは言えませんでしたが、不思議な事に、最近の日本で言うところの学級崩壊という現象は見られませんでした。
ここフィリピンでも、先に述べた家庭環境や文化的な背景からして、特にスラム地域に住む家庭、児童には、家庭内の躾が行き届かず、教師側からすれば、コントロール不能な児童は男子を中心に非常に多いのです。
そして、昨今の日本の状態の如く、体罰と言う事についても、非常にうるさくなっていて、当時、とある年配の教師は、
「私たちに、一体、この状況をどうしろというのか?!」
…と愚痴をこぼしておりました。
それにも関わらず、学級崩壊が起こらない理由は、学校が、そうしたコントロール不能な児童を排除出来るからなのです。
どう排除するのか?…そのシステムは単純明快で、ここフィリピンでは、小学校であっても、一定以上の成績、単位が上げられなければ、留年させられる為です。要は、本来であれば、小学校5年生なのに、2回留年した結果、まだ3年生と言った事態もあり得るのです。
その権限については教師、学校側が絶対であり、クレームもつけられないので、問題児は2回3回と留年させられる内に、自分よりもかなり年下の児童と一緒に勉強させられるのが嫌になったり、学校へ来るのが面倒になったりして、自主退学してしまうのです。そして、この国には、義務教育というものは制度として存在していても、それを強制的にも執行できる仕組みが存在しないので、一度、ドロップアウトしてしまった生徒は、恐らく、自主的には二度と学校へは戻りません。
また、それ以前の問題として、食うのが精いっぱいで経済的に学校へ子供を送り出す事が不可能な家庭や、更には、子供を学校へ送り出し、教育を受けさせる事の価値が分からず、そもそも学校へ子供を送り出す事をしていない家庭も少なくはない…とした実態もあり、まだ、学級崩壊に至るような状態は、ここではギリギリ抑えられているのです。
しかし、そうした状況から出て来る結果として、先に挙げた、男子生徒たちの修学比率は、高学年になるほど、その割合を下げているのが実態で、大学生に至っては、全体の70%以上は女子が占め、結果として社会進出も女性の方が進む…とした状態がここにはあります。
男子の不出来と植民地支配、そして、教育
さて、これは、非常にデリケートなところに踏み込みますが、上記の事を踏まえて、何故、ここが嘗て植民地化され、今でもその実態が継続されている事に一定の説明が出来るかも知れません。
それは、国防と言う事を考えた時、やはり、日本には嘗て、侍(サムライ)が存在して、中世においてアジアではタイと並んで植民地化を逃れた稀な国家であったのですが、それは、言い方を変えれば男中心の社会ではあったが、男がオトコとして機能していたという事だと思います。
泥臭い言い方になるかも知れないのですが、やはり、そうした国防のような緊急事態において、文字通り、矢面に立って、自己を犠牲にしても背後にある妻子、引いては国家を守るのはオトコの役割ではないか…と言う事です。
逆に男が腑抜けになってしまった場合に、何が起こるか…これは、私には、フィリピンの現状を見て来て、非常に明白になる事であり、昨今の日本の状況を見聞きして、非常に憂うる所です。
私の心に残っていることば
以前、私がまだ20代の頃、当時60代の男性が、「男の子は男親がいないと、ちゃんと育ち辛い」とおっしゃった事があり、当時は、私には、その意味が良く分からなかったのですが、今、上記のような体験を通して、本当にその言葉の意味は深かったと感じ入るところです。
…男尊女卑と誤解されると困るのですが、男と女はその機能の違いがあり、お互いにそれを補完しあえば、大変に良い状態となるが、権利の主張をして上げ足とりをするような事態は本当に拙いと思われます。要は、躾の事を例に挙げれば、通常、男は子供の時から荒く強いので、女親では、そのコントロールが難しくなる、或いは、男の子のそうした行動を理解できず、感情的になってしまう事は、恐らくは男子の成長にはマイナスになるのではないかと思います。しかしながら、男親がその辺りちゃんと理解して、しっかりしないならば、結果はフィリピンと同じことになるでしょう。
今、日本では、モンスター、或いはクレーマーのような親と、その子供たちが何かと学校を引っ掻き回す状態があると聞いていますが、そうした親には、恐らく、家庭内で、その家庭に生まれた子が社会にちゃんと適合できるよう、躾する事も無理だし、子供が問題行動を起こした事を他者のせいにして、自分は悪くないと暴れ、終いには公共の場(学びの園、学級)も破壊する…この点、今、日本はフィリピンよりも状況が悪いかも知れません。
思うに、子どもの躾は寧ろ、家庭に重きがあり、学校は、その躾がある事を前提に、教育を行う場であるのが理想ではないでしょうか?
日本の未来も危ない?
学校での教育は家庭での躾を元に、そこに集まった子供たちが集団の中で社会性を学ぶのが適切で、教師はそれを適切に監督する事、そして、一番の優先事項は、学問を教える事、その技術を磨く事だと思います。
親が働いて子供を養うのは大切な事です。しかしながら、ちゃんと躾をしながら子供たちを育むのも、それと同じくらい大切です。そして、その為には、やはり、時間的な余裕も必要になります。
上記の事柄を個々人が理解するのみならず、政府が良く認識した上で、教育改革、働き方改革を先導しないと、今に、日本は先進国から陥落する(或いはひょっとすると既に’している’)のではないかとさえ、思えます。
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